銀塩カメラで腕を磨いてきた人達を想う

打ち上げ花火を撮った後考えたことです。


私がカメラらしいカメラを使ったのはデジタルカメラが最初だったので、撮ってすぐ結果を確認し、まずいところがあればその場で修正して被写体に再度向かう(被写体によっては無理な場合もありますが…)ということを当たり前のように思っています。


でも、フィルムの時代はそうは行かなかったんですよね。


・現像しないと仕上がりはわからない。
・撮影データは自ら記録せねばならない。
・ISO感度は簡単に変えられない。
・たくさん撮れば撮っただけお金がかかる。


よくまあこんな条件で撮影するよなあ、と思ってしまいます。多分私がフィルムの一眼レフを持ったとしても、いつまで経ってもまっとうな写真が撮れなかったんじゃないかな。(何を「まっとう」とするかはひとまず置いておきます)


そう考えると技術の進歩に感謝せねばなんでしょうけれど、やっぱりデジカメで出来ることが当たり前、って思っちゃうんですよね。逆にコンピュータは 20年近く前から関わっているから、こっちの方は進歩に素直に感謝してしまいます。だから、こんなエントリを銀塩の方々が読むとどう思うかは想像できてしまう気がします。


ただ、そうは言っても単純に銀塩の進歩したものがデジカメということではなくて、銀塩は銀塩で残っていくものなのだろう、というのも何となくわかります。(すみません。銀塩カメラは詳しくないので「何となく」しかわかりません…)


多分この先も私が銀塩一眼レフカメラを手にすることはないでしょうが、銀塩カメラで腕を磨いて来た人たちには畏敬の念を抱いてしまいます。